アダルトチルドレンからの回復【第6話】母との同居で押しつぶされそうだった毎日

この記事は約7分で読めます。

“母を守る娘”から抜け出すまで

母との関係には
たしかな愛がありました。

でもその中で私は
自分を見失っていました。
 
これは母を責める話ではなく
母との関係を通して
本当の自分を取り戻していった
記録です。

今はその過程を、穏やかに
見つめられるように
なりました。

毒親という言葉があります。
私の母が毒親かというと、
決して「猛毒」ではありません。
落ち着いている時はやさしい人で
私は母のことが好きでした。

けれど、母の言動はじわじわと
私の心をすり減らすものでした。

母の不安定さと、娘の役割

母は感情が不安定な時が
しょっちゅうあります。

不安になると私に依存的になり
時には八つ当たりをします。
問題が起こると「ゆうこのせいで…」と
責任を転嫁されることもありました。

それは私にとって
静かに心を削っていくものでした。

 

「母を守らなきゃ」と思っていた子どもの私

子どもの頃の私は、
母に笑顔でいてほしいと
心の底から願っていました。

だから、母の八つ当たりを
「八つ当たり」として
認識することができませんでした

母は弱い人だ、支えてあげなくては――
そんな思いが、私の中で
ひとつの“役割”になっていました。

父の女性問題に苦しみ、落ち込む母を見て
私は自然に「母を守る側」
なっていきました。

 

そして父が亡くなったとき
迷いながらも母と同居することを
決めました。

あのときの私は、それが「私の役目」だと
思っていたのです。

働きながら子供を持ちたいと思っていた私は
「孫の存在が母を元気にするかもしれない」
とも思っていました。

正直に言うと、母と同居することで
育児を助けてもらえるのでは?
という下心もあったのです。

結果的にその後、私は乳がんになり
子どもを持つことはできなかったのですが。

 

母との暮らしが始まって

同居生活は
想像以上に難しいものでした。

母は引っ込み思案な性格で
住み慣れた土地を離れたあと
家の中で私の帰りを待つようになりました。

仕事から帰る私に向かって、母は
その日一日の不満や身体の不調を語ります。

最初のうちは、
「うんうん」と聞きながら
寄り添おうとしていました。

けれど、毎日それが続くうちに
私は少しずつ疲れていきました。

 

「お前は娘なのに…」という言葉の重さ

ある日、母は言いました。

「お前は娘なのに
お母さんをどこかに連れていって
やろうという優しさはないのか?

胸にずしんと響く言葉でした。

同居当初、私も夫も母を車に乗せて
ドライブに出かけていました。

けれどそのたびに母は
「車の乗り心地が悪い」
「レストランの料理がおいしくない」
と不満を口にします。

一緒に出かけるたびに
私はどっと疲れてしまう。

そして、だんだんと
外出の機会も減っていきました。

 

“お世話する娘”の限界

母にはもう少し外に出てほしい。
そう思って、私は駅前のカルチャーセンター
をすすめました。

夫も、母の膝関節炎の悪化を心配して
「少し散歩してみたら?」と
声をかけてくれました。

けれど、母の反応はいつも同じです。

「いらんこと言わんとって!」

怒りと拒絶

そのあとに続くのは、
「しんどい」「生きているのが辛い」
という言葉でした。

私には、為す術はありませんでした。

2014年頃の作品です。
3つの渦巻は当時一緒に住んでいた
母、夫、私の3人の心の渦を表しています。

 

感情の世話をする私

仕事の疲れて帰る私が
少し距離を置こうとすると
母は「あんたに話しても仕方がない」
と怒って自分の部屋に閉じこもる。

母が怒れば、私は動揺し
なんとか機嫌を直してもらおうと
必死で話しかける。

母の感情のお世話をやめられない。

それはもう、母と私の間の
“無限ループ”でした。

かつての私は
母をこんな風に同居に誘いました。
「子どもができたら手伝って」

母もそのつもりで
住み慣れた土地を離れました。
でも、私の乳がんで
その話は消えてしまいました。

母の中にはきっと、
「私を見知らぬ土地に呼んでおいて
放っておくなんて!」
という思いもあったのでしょう。

いま思うと――
母の八つ当たりも問題ですが
他人の感情のお世話をしようとしていた
私もまた、自分を追い詰めていたのです。

 

抑え込んだ感情が夢に出てくる

そんな日々に
私は心も体も疲れ果てていました。
泣きながら布団にくるまる夜もありました。

そんな母と私をみて
心配した夫はよく言いました。
「あんた達、おかしいで!」

 

その頃、私は
夢分析のセミナーに通っていました。
よく見る夢がありました。

それは――
便器から汚物が吹き出し
糞尿を浴びてしまう夢。

講師の先生が
『ひどい夢をみているね』と言っても
私はもう慣れてしまっていて
「そうかな」と思っていました。

夢には無意識に抑圧された
本当の想いが現れます。

ある日私はふと気づいたのです。

母に八つ当たりされた日の夜に
この夢を見ていたことに。

その瞬間、はっとしました。
ああ、私は母の言葉を
“汚物のように感じていた”のかもしれない。
でも、そう感じてはいけないと思って
抑え込んでいたのかもしれない。

 

アートセラピーで生まれた作品--便器から突き出る足

アートセラピーの課題で
自由に作品を作って提出する
という日がありました。

私が作ったのは――

白いタブレット容器の中から
黒いベルベットのスカートをはいた
足が一本突き出ている作品。

机の上に置いたその作品を見て
母が言いました。

「それ、便器か?」

私は、ハッとしました。
「ああ、便器かもしれない。」
と思いました。

当時の作品は残っていないのですが・・
こんなイメージの作品です

 

“便器から出る”という体験

アートセラピーの日
作品を持っていくと
先生は笑って言いました。

「これ、みんなでやりましょう。」

やるって?何を?

仲間が二人手を組んで
便器の形をつくってくれました。
先生は自分のベルベットのスカートを出して
きて、私に履くように言いました。

少し太めの私には履けませんでしたが
片足だけ入れてそのまま「便器の中」から
足を突き出しました。

そして、思い切って
“ヨッコラショ”と出て、靴を履きました。

この時は「これが何になるのだろう?」
と不思議に思っていました。

 

 

 

無意識の中の変化

ところが数日後のこと。

その日も母は不機嫌で
私はご機嫌をとろうとしていました。
こういう時の私はまるで道化のようでした。

なんとか機嫌を直してもらいたいと
話をするのですが、それが余計に
母をイラつかせてしまうのです。

母がスーーと息を吸って
今まさにキツイ言葉を吐こうとした
瞬間――

私の身体が自動的に
後ろにサッと引いたんです。

無意識の動きでした。
その一歩が私を守りました。
母も驚いていました。

その日、私は母の暴言を
浴びることはありませんでした。

 

本当の意味での“気づき”

この体験をきっかけにして
私は気づきはじめました。

母は弱い人ではなかった。

そして、私は
母の八つ当たりを
引き受ける必要は
なかった
のだと。

長い時間をかけてようやく
“母を守る娘”という役割が
剥がれはじめた瞬間でした。

そして、時が流れて
母も私と同じように乳がんになりました。
私が右乳がん、母は左乳がん
まるで対になったようでした。

次回はアートセラピーと心の旅
というテーマでお届けします。
お楽しみに。

心を整える7日間メール講座

母との関係、誰かとの距離感
「どうしてこんなに苦しいんだろう…」

そんな想いの奥には
子ども時代に身につけた
“生きのびるためのパターン”
が隠れています。

この7日間の無料メール講座では、
そのパターンをやさしくひもときながら
あなたの心が少しずつ自由になるヒント
をお届けします。

💌 無料で7日間の心のヒントを受け取る

体験セッションはこちら

オレンジ色のボタンを押していただくと詳細ページへ進みます。

タイトルとURLをコピーしました